私は一時期、「発達障害児・専門の学習塾」に勤めていたことがあります。
とある団地の中にある、看板のない小さな学習塾でした。
口コミで噂が広がり、札幌市内のあちこちから生徒が通うような素晴らしい塾でした。
塾長が亡くなられたことで、惜しまれつつ閉校したと後に聞きました。
その塾に講師として行った最初の頃は、衝撃の連続でした。
突然、奇声を発する子。
学習をしないで、ずっと指をなめている子。
何気なく注意した言葉で、号泣し始める子。
…もう、いろいろです
そもそも椅子に座っていられない。
先生の話が聞けない。
そんな生徒が大半の中、授業が本当に成立するのだろうか?
私はこの子たちの学力をちゃんと伸ばしてあげられるのかな?
伸ばすどころか、さらに病状を悪化させたりしないかな?
当初は、不安と得体の知れない恐怖で、正直押しつぶされそうでした。
発達障害に関する文献も読み漁りました。
ところが、発達障害児と一言で言っても1人1人症状が違っていて、対処法も当然異なります。
救いを求めるように指導マニュアルも読みましたが、本に書いてある指導法を適用させるのは逆に難しいことでした。
それでも、逃げずに真摯に向き合っていけば得るものは必ずあるものです。
体当たりで(笑)指導にあたっていくうちに、私の中でいくつかの「指導法もどき」が確立されてきました。
そのベースになった考え(…というかイメージ)は次のようなものです。
子どもを「1輪の花」に例えるとする。
障害を持たない子どもの花と、障害を持っている子どもの花は少し違う。
例えば、茎の太さや花びらの数。
葉の大きさや花の色…。
それは変えられないもの…変える必要のないもの…つまり「個性」である。
私はずっと、「障害を持たない子の花と同じように、形状を変えてあげよう」
そう考えて指導してきたのではないか?
でも、そんな必要は無かったんだ。
どんな花でも例外なく、キレイな花を咲かせるためにこの世に生まれてきた。
その花を咲かせるべく、土に栄養を与え、潤いとなる水を与え、あたたかい光を与える。
それが私たち指導者の責務なのではないか?
…拙い例ですが、私は次第にそう考えるようになったのです。
時同じくして、全くもって私を無視していた子どもたちが、私になつくようになりました。
どんな子も愛しくて愛しくてたまらなくなりました。
憂鬱で重かった心が、霧が晴れたようにすっきりとしました。
だからこの考え方は、少なくとも私の中では正しいものだったのでしょう。
発達障害児に対する世間の認識はまだまだ薄いものです。
よく耳にするのが…
「諦めないで頑張れば、絶対良くなるよ!」という根性論。
「普通の子と○○ちゃんは変わらないよ。全く大丈夫!…病気だと思わないほうがいいよ!」という無責任な楽観視。
それら間違えた認識が逆に、発達障害児の可能性を潰していると私は考えています。
根性論では発達障害は改善しません。
「諦める」のもとても重要なことです。
この場合の「諦める」は、「敗北」でも「努力放棄」でもなく、「現実をありのままに受け入れる」ことだと思います。
我が子に発達障害があるという現実を、本当の意味で「受け入れる」ところから、全てが好転します。
気休めでも何でもなく、そんな現実を私はこの目で多々見てきました。
当然ですが、、「諦めない」ことも必要です。
私は講師の立場として、
「この子がキレイな花を咲かせるために、どうしても諦めたくない!」ということを、それはそれはしつこく(笑)指導してきました。
例えば、「会話力(意志伝達力)」と「観察力」、そして「聴く力」。
子どもたちがこれから長い人生を生き抜くために、欠くことのできない力です。
これらの指導は、まさに暗中模索と試行錯誤の繰り返しでした。
いつか、その具体的な方法をご紹介したいと思います。