前回にも書きましたが、国語は「ズボラちゃん」や「せっかち君」、「面倒臭がりやさん」にはなかなか点が取れない教科です。また、常に効率や最短距離を行くことを考える人にも向きません。国語は最短距離どころか、あちこち回り道をしたり立ち止まったりしながら力を付けていく学問だからです。
正確に理解しながら述べられている事柄を追っていく説明文や、論理を積み上げていく論説文などは、ズボラさん方にもトレーニングを重ねることで少しずつ読み解けるようになります。
ただ、「物語」「小説」となるとそうはいきません。話をじっくり読んで、じっくり考える。話の場面設定から、自己の内面のフィルターを通しつつ他者の心情を推察する。自分自身と登場人物の間を行来しながら答えを見つけていく。それが物語や小説です。
前回書いた「学力の生活習慣病」の子たちにとってこれがなかなか難しいのですよね。特に「無関心」タイプの子には至難の業です。「登場人物はどんな気持ちか」などと聞かれても、そんなの考えたことがないし、考えようもない。そもそも人の気持ちなんて興味がない。…そんなタイプには物語の読解はさぞや苦しいことでしょう。
国語という教科の根幹が「伝える」「理解する」ことにあり、先にある力が他者との「コミュニケーション力」であるならば、国語の原動力は相手への関心。広く言えば愛情なのではないかと私は思っています。例えば作文だって、相手に見せることを前提で書くものですよね。読み手が理解できるようにわかりやすく丁寧に書く。それは読み手への気遣い、配慮であり、ベースは相手への愛情です。
話すのも聴くのも同じ。こう言ったら相手は理解してくれるだろうか。どう感じるだろうか。何が言いたいのだろうか。どんな意図でその話をしているのだろうか。
他者の存在無くしては、話す力も聴く力も無用の長物です。
これらは全て社会人になっても必要な力。いいえ、社会人になってからより必要とされる力とも言えます。国語の指導者は、それをしっかり念頭に置いて指導する必要があるでしょう。
かく言う私も、みがくの教材を作成する際や生徒に指導する時にはいつも、その学習の「先」を見据えるようにしています。