金田一春彦先生のエッセイ「日本語のこころ」での一説をご紹介します。
お手伝いさんが台所でコップを手からすべり落として、コップが割れてしまったとする。日本人はこのような時、
「私はコップを割りました」と言う。
聞けばアメリカ人やヨーロッパ人は「コップ(グラス)が割れたよ」と言うそうだ。もし「私がグラスを割った」と言うならばそれは、グラスを(故意に)壁に叩きつけたか、トンカチで叩いたような場合だそうだ。
「私がコップを割りました」と言うような言い方をするのは、日本人にはごく普通の言い方であるが、欧米人には思いもよらない言葉遣いかもしれない。
これには日本人の責任感の強さを感じさせる。自分が不注意だったからコップが割れたので、コップが割れた原因は自分にある。そう言う意味では自分が壁に叩きつけたりしたのと同じである。そう思って「私が割りました」と言うのだ。
そう思うと、この簡単な言い方の中に日本人の素晴らしい道義感が感じられるのではないか。誰が言い出したか、教えたか分からないが、日本人にそういった気持ちを根付かせてくれた先祖たちに謹んで頭を下げたい。(『文藝春秋』(’99年3月号))
…そうですよね。私たちは「割りました」とだけは言わないですね。
「私が」と殊更強調しなくても、
「すみません、割ってしまいました…。」と、自分が割ったことを明らかにしますよね。
金田一先生はこれを「道義感」という言葉で表現しています。なるほど、「謙虚(奥ゆかしさ)」「責任感」「思いやり」は、日本人に綿々と流れる思想・心情なのかもしれませんね。
確かに感謝すべき誇らしい「こころ」だと思います。