最近読んだ本。
西村克彦著『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(光文社新書)
読解力が身に付かない理由の1つは、「わかったつもりになっていること」にある。そう筆者は述べています。国語関連の書籍として、とても賛同できる内容でした。
例えば、次の文章を読んでみてください。
ふうは走った。足がもつれそうになっても、胸がドキドキして苦しくても、走り続けた。大好きなお母さんの顔を思い浮かべながら、オレンジ色にそまった坂道をかけおりて行った。
どうでしょうか、難解な表現は使わなかったので読めたとは思います。
ただ、この文章を読んですぐに「うん、わかった!」と言うのは危険です。深く考えた上で「わかった」のなら良いのですが、軽く一読しただけでは「わからない」のがむしろ当然です。
ふうというのは何者でしょうか?
人間の女の子?それとも男の子?
もしかしたら狸の子かもしれませんよね。
また、ふうはなぜ走っているのでしょう?
ふうにどんなアクシデントが起こったのでしょうか?
…うーん、謎だらけですよねぇ。
文章(この場合は物語)を読むときは、単に文字面をなぞっていくだけでは深く理解ができません。
文章や行間から、
●主人公の性格
●現在起こっている出来事
●主人公の心情推移(過去→現在)
●物語の背景(場所、時間帯、登場人物)
などを考え探りながら読み進める作業が必要なのです。
そのためには語彙力が不可欠です。想像力も要ります。情報を整理して論理的に構築する力も必要ですし、ちりばめられたキーワードを見逃さずに読み進める繊細さも要るでしょう。
上記の例文。私は意識的にある表現を抜きとりました。それは「病院へ向かう」という2文節です。これを「坂道を」の直前に入れてみてください。きっと氷解したように文意が見えてくると思います。
時間帯は夕方。ふうという子は母の病院へ向かうために急いでいるではないかと(まだ推論の域を出ませんが)。
逆に言うと、「病院へ向かう」を抜いて読んだ状態では決して「わかる」ことはできないのです。これはこの文章を読む上でのキーワードでした。それなのに、さっと目を通しただけで「読めた」「わかった」と断言してしまうことに問題があります。
単に「文章にわからない言葉がなかった」ことと、その文章を理解できた(わかった)ことはまるきり違います。それは「わかった!」の質やレベルの差とも言えます。
何でも同じではないでしょうか。
できる人は「わかった」と即答をしません。どこまでの範囲をどこまでの深さでわかったと言えるのか。自分は果たして今の段階でどこまでわかっているのか。それらを熟考するからです。
職場でもいませんか?「わかりました」と答えた割にこちらが納得いかない仕事をする人。「わかったって、どのレベルで?」と手厳しい私ならちくりと注意してしまいそうです(笑)。総じて、自己評価の高い人ほど、「わかった」のレベルが低い傾向にあると私は感じています。
『自分にはまだまだわからないことが沢山ある。…これはどうだろう。この場合は?
1つ1つ深く、広く考えていこう。』
そんな謙虚な気持ちと探究心を持って文章にあたる(事にあたる)姿勢こそ、「深くわかる」ことへの第一歩なのだと思います。